東日本大震災から10年  ―写真で見る被災地の今―

 東日本大震災からちょうど10年。それまでなかなか行く機会のなかった、三陸海岸にボランティアとして20回近く足を運び、がれきの片付けや、泥かき、また仮設住宅でのイベントのお手伝いそして夏のドリームキャンプのスタッフとしてささやかだがお手伝いしてきた。

昨年は新型コロナウイルスで、気仙沼大島でのドリームキャンプも延期され、約1年半ぶりの訪問となった。3月6日、7日の短い時間だったが、ひかりプロジェクトのメンバー2名(藤原、大江)が宮城県気仙沼市と岩手県陸前高田市、大船渡市を訪ねた。2日間好天に恵まれ、10年後の被災地を見てきたのでご紹介する。

 

 3月6日12時、三陸への新幹線の玄関口、一ノ関にてレンタカーをピックアップ、一路気仙沼へ向う。途中、北上川にかかる橋を渡り、道の駅かわさきにて休憩。震災以降何度も利用したところだ。気仙沼駅ではピカチュウがいつも明るく迎えてくれる。

午後2時に気仙沼でのボランティア活動の拠点として多くの方々を受け入れてくださった金光教会へ到着。

 

その後、南下し岩井崎、東日本大震災遺構・伝承館を訪問。旧気仙沼向洋高校をそのまま保存した「目に見える証」で震災の記憶と教訓を伝えるリアルな展示があの日あの時を思い出させる。

 少し足を伸ばし、岩井崎を探訪。公園として整備され「龍の松」や「潮吹岩」が太平洋を前に凛として、そして悠然と迎えてくれた。

 夕刻、気仙沼に戻り、紫神社前商店街で中華を堪能し、宿泊はホテル一景閣。多くのボランティアの方々が清掃作業を行い、復旧復興を支援させて頂いたホテルだ。

 あの頃、周りはまだまだがれきの山で、それほど大きい建物ではないが、泥かきや拭き掃除もどこまでやればいいのか、やっても、やってもきりがないように思えた。しかし、被災した方々も同じ思いであったと思う。しかし、少しずつ、少しずつきれいになっていく。これこそが被災地の復旧、復興だと当時感じた。10年経ってここに宿泊させて頂くことは、かつての夢であり、それが叶った思いだ。

 翌7日の早朝、6階のテラスに出て昨日開通したばかりの三陸道気仙沼湾横断橋を間近に見る。ちょうど朝日が出てきた。ロビーで目にした今朝の朝刊にも第1面にもそのニュースが掲載されている。

 ホテルを出て、まずは漁船が多く停泊している気仙沼漁港へ。北海道船籍他多くの船が停泊し、さすが水揚げ全国10位を誇るだけのことがある。昨夜宿泊した一景閣周辺にも多くの水産関係の会社や工場が復活していた。

 続いて安波山(あんばさん)に登り、気仙沼の市街地を一望する。以前よりは建物の数が増えているが、ところどころ更地も目に付く。内陸に目を向けると高層の災害公営住宅が目に付く。山を下りて、国道45号線を北上。小規模な漁港があちこちにあるが、どこも津波被害から復旧して新しい感じがする。

 やがて、陸前高田の町が見えてきた。津波で流された気仙大橋は急ピッチで工事が進められ2011年7月10日に仮橋が完成し、仙台―青森間の太平洋側の国道45号線が全通した。その後、長く仮橋のままだったが、2018年12月に気仙大橋として完成。橋を渡ってすぐ右手は奇跡の一本松。そばには全壊したユースホステルが震災遺構として残っている。

 震災後何度か、この陸前高田を訪れたが、国道を挟んだ左右の様子はすっかり変わってしまった。2,3年目頃は、松林がすっかりなくなった海岸では防潮堤を作る工事中で、近くの山からベルトコンベアで土を運び町全体のかさ上げを行っていた。国道脇には献花台がおかれ、そこから歩いて一本松までぬかるんだ道を歩いたものだ。

 現在、海岸と国道の間は広大な「高田松原津波復興祈念公園」として整備されている。

 開館まで時間があるので、さらに北の大船渡市碁石海岸へ足を運んだ。

 典型的な三陸のリアス式海岸で、展望台から望む周囲の奇岩や太平洋は素晴らしい。それでもつい、津波の時はどうだったんだろうと考えてしまう。

 陸前高田に戻って、復興祈念公園内にある「津波伝承館」に入る。かなり広いスペースにいくつかのゾーンに分かれて東北の地と津波・地震について、最新のAV機器を用いて紹介している。ゾーン1では「歴史をひもとく」というテーマで古く千年以上前の貞観津波を始め、繰り返し襲ってきた津波の歴史を当時の地層などを見せながら解説。ゾーン2では「事実を知る」というテーマで、実写映像や津波を受けた車、橋梁、被災者の声や様々な記録を見ながら、その脅威を目のあたりにする。ゾーン3では「教訓を学ぶ」ということで、壁一面の多くのモニターに映し出される震災当時の人々の行動、復旧に向けた様々な人々の取組みを紹介しながら、命を守る教訓を学ぶ。

 興味深く見たのは、津波直後の内陸部から海岸に向かう道路のがれき撤去のために取られた「くしの歯作戦」だ。東北自動車道と国道4号線からくしの歯のように伸びた多くの国道を、救命・救援ルート確保のための活動である。そして3月18日には国道45号線の97%が通行可能になった。

4月の初めに気仙沼に車で入った際には、狭いけれども車が1台は通れる状態になっていたのは、そういうことだったのかと、胸が熱くなった。その第一線で指揮をしていた方々のインタビューもあり、生々しくその頃を思い出した。

「津波伝承館」を出てそのまま海岸に向かう。海岸一帯に盛土をされた防潮堤のほぼ中央に「献花台」が置かれ、追悼・祈念施設の中心となっている。キラキラと輝く太平洋に向かって亡くなられた方々の御霊へ祈りを捧げさせてもらった。防潮堤から海側には、松の苗木が植えられ、やがて何十年後かには見事な松原を復活させてくれることだろう。

 気仙沼への戻りは三陸自動車道を通る。今、仙台から岩手県宮古市までがつながった。残りの岩手県北部の一部も今年中には開通予定で仙台・八戸間を結ぶ。前日、開通したばかりの気仙沼湾横断橋が近づくと、急に渋滞してノロノロ運転になる。確かに、この橋は復興のシンボルとして、地元の方々の誇りなのかもしれない。橋を渡り気仙沼中央ICで降り、気仙沼の港へ向かう。

 以前、大島へのフェリーボートが出ていた桟橋はPIER 7としゃれた名前に変わり、周囲の建物も横文字が多く、港町という感じがする。天気の良い日曜日であったが、コロナ禍で人々の外出が抑えられていることもあり、人出はそれほどでもない。昨夜も8時頃は港町ではあまり人を見かけなかった。

 駆け足の2日間だったが、気仙沼と陸前高田を中心にあちこち見て回れた。天気も良く、昼間は寒さも感じず、陽光にきらめく海を見ながら、「10年前にあんな大変なことが起こったんだ」と感慨深いものがあった。

 ボランティア活動、復興支援活動で震災直後から関わらせていただいたが、あの頃からは見違えるほどの復旧の姿を見た。特に気仙沼伝承館、陸前高田松原復興祈念公園など震災後の土地整備と災害時の教訓、心構え、対処の仕方、そしてあの記憶を風化させないための写真、映像が数多く残されている。道路、建造物は目を見張るばかりだが、今も更地のままとなっている所も多い。また津波被害を経験した住民の心のケアも今後の課題といえるだろう。

 昨年来のコロナ禍で観光、経済活動も一時停滞しているが、これまでの10年という時間に感謝は尽きない。そしてこれからの10年、「忘れないこと」、被災地の更なる復興、経済の再興、心の充実と安心の生活を取り戻すために支援できることは何でも行っていきたいとの思いを新たにした。(文責・大江靖)

 

気仙沼を舞台にしたNHK連続テレビ小説“おかえりモネ”5月17日放送開始、必見です。

番組サイト=> https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=27872